2019年11月4日月曜日

第37話 自分で決める力(花まる:前原)


武雄に限らず、花まる学習会が「思考力を育む授業」を実践している学校では、子どもに「『なぞぺー』の問題作りにチャレンジ」してもらうことがある。

 ごくたまに「今から全員で『作問』をしよう!」ということもあるのだが、基本はプラスαの課題。プリントが早く終わった後にできる「スペシャルミッション」という形で子どもにチャレンジしてもらう。

「スペシャルミッション」を渡された時、「スペシャル」という表現に喜び、「やりたい!」と意欲を燃やす子が結構多い。特別感を演出されると誰でも嬉しいのだ。
他にも、「やった!自分が問題作れるんだ!」と嬉しそうにする子もいる。問題を解く側ではなく、作る側。少しランクは上がったように思うようだ。

もちろん、「いや~、僕にはちょっと難しいよ…」と遠慮する子もいる。
ただ、楽しそうに作っている友だちを見て、「やっぱりやってみる」とプリントをもらいに来るケースは結構多い。

 子どもたちがどんな問題を作ってくるかいうと、これまで自分が解いたことのある問題、特にその授業内で解いた問題をベースにして作ってくることが多い。

授業で出した問題から、発展形を作ってみた一例。
(上が花まる作、下が子ども作)
とはいえ、なんでもかんでもOKなわけではない。

「問題を作るってどういうことだろう?」
問題の作者として大切にしたいことを、まずは私から伝えている。

(1)「人に解いてもらうもの」…ルールが伝わりやすく、答えが出るもの
(2)「誰に解いてもらうか」……自分と同じ年齢の子なのか、大人なのか

楽しく問題を解いてきた子どもだからこそ、面白かった問題ってどんなものか、肌でわかっている。
ただ、「こうあるべき」と硬くなってしまうと、アイデアを形にしづらい。

上記2点伝えた上で、私からは、
「どんなものを作るかは自由だよ」と伝えている。 
さて、「自由だよ」と言われた時、皆さんはどう思うだろうか?

例えば、ある学校の2年生クラスで「ラッキーバルーン」という問題をしたときのこと。
授業で出した問題のルールは、「割れない風船は1つだけです」と伝えていた。
この問題が楽しかったのか、Aちゃんは「ラッキーバルーン」を作ってみる!と張り切ってプリントを持って席に戻った。

ところが、数分後、彼女が私のもとに不安そうな顔でやってきた。

「ラッキーバルーンは、残る風船が1個じゃなくてもいいの?」

ラッキーバルーンの一例
割れない風船を見つける問題です。



 


「割れない風船って何個もあったらおもしろそう!」
「でも、それっていいのかな??」
そんな不安が彼女の頭でめぐっていることが、伝わってきた。

私は伝えたのは一言だけ。
「割れない風船が増えるんだね、作ってみようか」と。

その一言を聞くとすぐに、「やってみる!」と表情が明るくなり、走って席に戻っていった。
戻って数分後、完成品を持ってきた。
「割れない風船」が23個というルールに加え、色々なしかけが出ていた。

「作っていたら、思いついたからつけてみたんだ!」
「こうなったらおもしろいな!」と自由に考えることを楽しめたようだ。


「自由でいいよ」と言われると、「好きなように作ってみよう!」と気持ちは高まるのだが、ふと「これでいいのかな?」と不安に襲われる瞬間がやってくる。

子どもの「ねぇねぇ、これはどう?」という質問は、不安な気持ちも交じっていると思う。
ではそれに対して、どんな返答があるのか。
(1)「いいね、作ってみようか」
(2)「自由でいいんだよ、作ってみようか」
(3)「さっき自由でいいって言ったよね」

私自身、色々な子どもに、色々な返答をしてきた。返答をする中で、「子どもは自分のアイデアを分かってもらえると、よりエンジンがかかる」ということも肌で感じてきた。そのためには、不安を取り除くことは欠かせないだろう。
ただ、私の中で、ただの「いいね」よりも、具体的に返す、これに意味があるように、最近感じている。

実は、「いいね」で返した子は、そのあとも「先生、これはどう?」とひたすら聞いてくることが多い。
どこか、「先生に認められないと、次に進めない・自分では決められない」という、その子の中での暗黙のルールができてしまったみたいだ。

最近、特に意識しているのは、彼らが作ってきたアイデアを、まずはそのまま言葉にすること。
「めいろを作ったんだね!(指で)こっちにひっかけを作ってみたんだね」
「パズルを作ったんだね。(指で)ここの数字の位置は迷うところに置いたんだね」

そうすると、不思議なことに、子どもたちは饒舌になる。
「ほかにも工夫を入れたんだよ!たとえば…」
「このしかけはね、問題を解いているときから浮かんでいたんだ!」
など、饒舌になるばかりか、声が大きくなる子もいる。

理解してもらえた!と思えた子は、これまた面白いのだが、そのあと「これどう?」「あれどう?」と聞いてくることはない。自分のアイデアに迷いがなくなり、自分が考えたアイデアを、自信をもって形にしてくる。 

「『問題作り』は、子どものどんな力につながっていきますか?」と保護者さんに質問をされることがある。そんなときは決まって、以下の3つを伝えるようにしていた。
「自分のイメージを形にできる力」
「それを人に伝える力」
「人を楽しませる、人の心を動かす力」

ただ、受け答えを変えるようになってから、上記の力につながるための、もう一つ重要な力が隠れているような気がしている。

「自分で決める力」
自分はこうしたい
自分はこれを形にしたい

自分がどうしたいのか、については、他人が決めるのではなく、自分が決めないと、次に進まない。
自分で決められる人は、自然と自分に自信が持てるようになる。「ラッキーバルーン」で自分のアイデアを形にできた2年生の女の子のように。

自分の意志で道を切り拓いて生きていける人は魅力的だと思う。
「自由な」問題作りを通して、彼らが「自分で決める力」を持った、魅力的な人になるように、そんな想いで、彼らのアイデアをしっかりと受け止めていく。


2019年10月1日火曜日

第36話 災害ボランティアを通して(花まる:前原)


2019828日早朝、災害の危険を知らせるアラームが鳴り響いた。
武雄市はこれまでにないほどの大雨に見舞われ、市内の東側(北方町、橘町、朝日町)を中心に、大水害が起きた。
もともと、市内には「浸かりやすい」と言われている場所があり、北方町、橘町、朝日町はまさにその地域。その地域に住む年配の方々は口をそろえて、「毎年1回は浸かるもんね」「浸からんと梅雨が明けんもんね」と言っている。
ただ、今回はこれまで遭っていた水害のレベルをはるかに超え、多くの家、店舗が被害を受けている。

大雨が降った週の土曜日からボランティアの受付がスタート。武雄市内外から日々多くのボランティアが集まり、少しずつではあるが、復旧が進んでいる。
関東・関西・東海地方の「花まる学習会」からも、数名のスタッフがボランティアに参加してくれた。私もそのスタッフたちと一緒になって、2回ほどボランティアに参加した。
連日、多くの方がボランティアに参加しております。本当にありがとうございます。





ある家のボランティアとして入ったときの休憩時間。
家主Aさんと話をする時間があった。
「やっぱり、人とお話をすることが、一番元気になります」
「家に一人でいると、変に思いつめちゃったりして、鬱になってしまうもんね」
と明るく話してくれるAさんは、人と話をすることが大好きな方だった。

私たちがボランティアに来る以前から、数回ボランティアスタッフに来てもらっていたようで、
「一人でできないことを、色々な人に助けてもらって、本当に『人は支えられて生きているものなんだな~』と実感する日々です」と嬉しそうに話していた。

一方で、ショッキングなことも起こったという話も。

Aさんの家は築130年の立派な日本家屋。
家のつくりからも年季を感じたのだが、家に飾られているものからも、時代を感じられ、その家には130年分の歴史がつまっていた。

その分、130年分のものがあるのも事実。代々残されている書籍、写真など。すべてがこの家の想い出。
それもあり、「今回の水害で整理するのも大変だった」と話していたのだが、ショッキングなことはその整理中に起こったという。

整理中、ボランティアの方が
「この家、ものが多かね!(※)」 ※多いね!という意味
と言っのだ。
そのボランティアの方は、悪気があって言っているわけではない。
目の前の事実を見て述べただけ。

それでも、その言い方から、
「『うわ~、大変そう…』と思っているのではないか…」
Aさんは、そう感じ取ってしまったのだ。

それでもAさんは、こう前向きに話してくれた。
「ボランティアをお願いして、助かったこともあったけど、学んだこともありました。もしかしたら、自分も何気なく発している言葉で相手を傷つけてしまっているのではないか、と。そのボランティアの方がいたから学べたこと。これも何かの縁だよね。」


Aさんの心の広さに感銘を受けただけでなく、この会話から大切なことを学ばせていただいた。ボランティアをしている身として、また子どもたち、保護者、先生、地域の方に伝えることが多い身として。


「伝える」行動には伝え手と受け手がいる。

伝え手には、当然ながら、「こんなことを伝えたい!」という想いがある。
ただ、それが自分の想いを、その通り受け止めてもらえるか、というとそうじゃないときもある。
特にお互いの関係が深いものでなければ。

伝え手が意図したこと、受け手が受け取ったことは、
お互いの価値観があるからこそ、どうしてもすれ違ってしまうことがある。
こう考えると、伝え手は、「相手の心を傷つけないように…」と慎重になってしまいそうだ。
失敗が許されない、相手に何を言い返されるかわからない…そんな恐怖心も起こってしまいそうだ。


一方で、受け手は、その一回の言葉で相手のことを判断できるものなのだろうか。
「~さんって、物静かで主張しない人だと思っていたけど、自分の好きなことになると夢中になって話すよね」。人との出会いの中で、「意外な一面を知る」という経験は日常茶飯事だ。その人のことを知るのには、ある程度の時間がかかる。


もちろん、失言は許されるものではない。伝え手は「受け手のことをイメージする」、それは欠かせないことだろう。ただ、受け手も「この人はどんな意図でこのことを話しているのか」と、色々な言動から読み解くことも求められるのではないだろうか。
いわばイメージ合戦。
ただ、それだけではダメだから、そこにコミュニケーションが生まれる。
内に秘めた探り合いじゃなくて、オープンにした相互理解。


お互いに「この人はどんな人なのだろう」「この人はどう想っているのだろう」「感じているのだろう」などと、想いをはせ続けることがコミュニケーション。
言いたいことを言って終わる、聞いて終わり、それはコミュニケーションではないんだな。
子どもに日ごろ言っていることが、ブーメランのように、自分にも返ってきた気がした。


私は子どもを相手に授業をすることが多いので、授業に置き換えてみる。
授業はライブ。そこにはコミュニケーションが発生するものだと思っている。
自分(授業を運営する側)は伝えたいことを持っている。
相手である子どもたちはどうか。色々な好き・苦手(という思い込み)・得意を持った子がいる。
色々いるのだろうが、彼らを授業という空間に惹きこむにはどうしたらいいのだろうか。
いわば演出。
その演出のためには、相手の特性を知る。
「相手が惹きこまれる瞬間とは…」ということを、相手とのキャッチボールを通して、試行錯誤する。

Aさんの話を聞きながら、わが身に置き換えていた。
これこそ、子どもの前に立つ人間が心に秘めておかないといけない本質なのだと。
ボランティアという立場で、Aさんのように被災された立場の方々の力・支えになるように、と励んでいたが、気が付くと、Aさんから自分が励まされていた。
これもまた縁なのだ。人と関わるからこそ、自分を強くしてくれる縁が広まっていくのだ。