2019年10月1日火曜日

第36話 災害ボランティアを通して(花まる:前原)


2019828日早朝、災害の危険を知らせるアラームが鳴り響いた。
武雄市はこれまでにないほどの大雨に見舞われ、市内の東側(北方町、橘町、朝日町)を中心に、大水害が起きた。
もともと、市内には「浸かりやすい」と言われている場所があり、北方町、橘町、朝日町はまさにその地域。その地域に住む年配の方々は口をそろえて、「毎年1回は浸かるもんね」「浸からんと梅雨が明けんもんね」と言っている。
ただ、今回はこれまで遭っていた水害のレベルをはるかに超え、多くの家、店舗が被害を受けている。

大雨が降った週の土曜日からボランティアの受付がスタート。武雄市内外から日々多くのボランティアが集まり、少しずつではあるが、復旧が進んでいる。
関東・関西・東海地方の「花まる学習会」からも、数名のスタッフがボランティアに参加してくれた。私もそのスタッフたちと一緒になって、2回ほどボランティアに参加した。
連日、多くの方がボランティアに参加しております。本当にありがとうございます。





ある家のボランティアとして入ったときの休憩時間。
家主Aさんと話をする時間があった。
「やっぱり、人とお話をすることが、一番元気になります」
「家に一人でいると、変に思いつめちゃったりして、鬱になってしまうもんね」
と明るく話してくれるAさんは、人と話をすることが大好きな方だった。

私たちがボランティアに来る以前から、数回ボランティアスタッフに来てもらっていたようで、
「一人でできないことを、色々な人に助けてもらって、本当に『人は支えられて生きているものなんだな~』と実感する日々です」と嬉しそうに話していた。

一方で、ショッキングなことも起こったという話も。

Aさんの家は築130年の立派な日本家屋。
家のつくりからも年季を感じたのだが、家に飾られているものからも、時代を感じられ、その家には130年分の歴史がつまっていた。

その分、130年分のものがあるのも事実。代々残されている書籍、写真など。すべてがこの家の想い出。
それもあり、「今回の水害で整理するのも大変だった」と話していたのだが、ショッキングなことはその整理中に起こったという。

整理中、ボランティアの方が
「この家、ものが多かね!(※)」 ※多いね!という意味
と言っのだ。
そのボランティアの方は、悪気があって言っているわけではない。
目の前の事実を見て述べただけ。

それでも、その言い方から、
「『うわ~、大変そう…』と思っているのではないか…」
Aさんは、そう感じ取ってしまったのだ。

それでもAさんは、こう前向きに話してくれた。
「ボランティアをお願いして、助かったこともあったけど、学んだこともありました。もしかしたら、自分も何気なく発している言葉で相手を傷つけてしまっているのではないか、と。そのボランティアの方がいたから学べたこと。これも何かの縁だよね。」


Aさんの心の広さに感銘を受けただけでなく、この会話から大切なことを学ばせていただいた。ボランティアをしている身として、また子どもたち、保護者、先生、地域の方に伝えることが多い身として。


「伝える」行動には伝え手と受け手がいる。

伝え手には、当然ながら、「こんなことを伝えたい!」という想いがある。
ただ、それが自分の想いを、その通り受け止めてもらえるか、というとそうじゃないときもある。
特にお互いの関係が深いものでなければ。

伝え手が意図したこと、受け手が受け取ったことは、
お互いの価値観があるからこそ、どうしてもすれ違ってしまうことがある。
こう考えると、伝え手は、「相手の心を傷つけないように…」と慎重になってしまいそうだ。
失敗が許されない、相手に何を言い返されるかわからない…そんな恐怖心も起こってしまいそうだ。


一方で、受け手は、その一回の言葉で相手のことを判断できるものなのだろうか。
「~さんって、物静かで主張しない人だと思っていたけど、自分の好きなことになると夢中になって話すよね」。人との出会いの中で、「意外な一面を知る」という経験は日常茶飯事だ。その人のことを知るのには、ある程度の時間がかかる。


もちろん、失言は許されるものではない。伝え手は「受け手のことをイメージする」、それは欠かせないことだろう。ただ、受け手も「この人はどんな意図でこのことを話しているのか」と、色々な言動から読み解くことも求められるのではないだろうか。
いわばイメージ合戦。
ただ、それだけではダメだから、そこにコミュニケーションが生まれる。
内に秘めた探り合いじゃなくて、オープンにした相互理解。


お互いに「この人はどんな人なのだろう」「この人はどう想っているのだろう」「感じているのだろう」などと、想いをはせ続けることがコミュニケーション。
言いたいことを言って終わる、聞いて終わり、それはコミュニケーションではないんだな。
子どもに日ごろ言っていることが、ブーメランのように、自分にも返ってきた気がした。


私は子どもを相手に授業をすることが多いので、授業に置き換えてみる。
授業はライブ。そこにはコミュニケーションが発生するものだと思っている。
自分(授業を運営する側)は伝えたいことを持っている。
相手である子どもたちはどうか。色々な好き・苦手(という思い込み)・得意を持った子がいる。
色々いるのだろうが、彼らを授業という空間に惹きこむにはどうしたらいいのだろうか。
いわば演出。
その演出のためには、相手の特性を知る。
「相手が惹きこまれる瞬間とは…」ということを、相手とのキャッチボールを通して、試行錯誤する。

Aさんの話を聞きながら、わが身に置き換えていた。
これこそ、子どもの前に立つ人間が心に秘めておかないといけない本質なのだと。
ボランティアという立場で、Aさんのように被災された立場の方々の力・支えになるように、と励んでいたが、気が付くと、Aさんから自分が励まされていた。
これもまた縁なのだ。人と関わるからこそ、自分を強くしてくれる縁が広まっていくのだ。